昭和44年08月09日 朝の御理解
御理解 第62節
「昔から人もよけれ、我もよけれ、人より我はなおよけれと言うておるが、神信心をしてもわが身の上のおかげを受けて後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じ事。一段一段、進んでいくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」
「人もよけれ我もよけれ、人より我はなおよけれ」となにか人をこう、押しのけ押し分けして、自分が助かると言った様な風に聞こえますね。ここんところは。人より人もよかれ我もよかればってん、人より我は尚よけれと言った様なそういうその、ここんところこう人を押しのけてからでも、自分が先に先ずおかげを頂かなんならんと言った様なものを私も感じておりましたけれども、実はそうじゃない様です。ね。
人もよけれ我もよけれ、人より我はなおよけれというているが、神信心をしてもわが身の上におかげを受けてと、いう所になって来ますね。だからそういう世間で言う様な言葉を、神信心の上に当てはめておられるわけなんです。ですから普通で言う、人より我はなおよかれというのとはちょっと違う。いわゆる御神縁を頂いて、神信心をさせて頂く様になって、矢張りわが身のおかげを頂かなければ。
人を助けてやる事も人に話しをしてやる事も出来んのですが。ですから世間のそれとは人より我はなおよけれというのは、人を押しのけてでも自分が先に幸せになるといったような、風に私もそんな風に感じていたのですけれども、今日、御理解頂いてみると、そうではない事が分かりますから、そこん所が神信心しても、わが身の上におかげを受けてと言われております。
そこでですね、わが身におかげを受けてと言う事がね、なるほどその色んな難儀な問題もございます。人間関係、経済の問題、健康の問題、様々ございますけれども、その様々な難儀な問題の中から、助けて頂くということ。昨日私は四時の御祈念頂こうと思うて、ここに出てまいりましたら、一人の婦人の方が、お参り、久富先生のお取次ぎを頂いて、帰ろうとしておられました。
もう時間にギリギリでしたけれども、お取り次ぎさせて頂きますと、家を現在親からの代から残っておる、その家を、他の兄弟達が売れとこう言われるのですが、それを売ろうか売るまいかと、それには様々な、人間関係もからんでおるし、同時にこの引き揚げて帰ってきておられる分けですけれども、帰って来てから、次々と難儀な病気にあったり、なんかするから、自分も少しは家に嫌気をさしておられたり、まあ様々な問題が絡んでおるようでした。
ですから、四時の御祈念ですから、ちょっとね答えだけ出して差し上げときましてから御祈念に掛かって、もし暇だったら私の御祈念を頂き終わってから、ゆっくりお話致しましょう。お急ぎでなかったらというとったら、御祈念が終わるまで待っておられました。それで、控えによって頂いてから、お話をさせて頂いたんです。ね。ですから例えば家を売るとか売らないとかと、言った様な答えは直ぐ出た。
それは時間は掛からなかった。けれどもですね、その自分の心がそういう生き方があったのでしょうか、そういう思い方があったのでしょうか、という事を段々御理解頂かれる内にもう、言葉が出らん位に嗚咽してなきながら御理解を頂かれました。私はこちらで短時間でしたけれども、これは兄弟達だけじゃない、親達だけじゃない、私も悪うございましたと言う様なものを、もう言葉になってでらんのですよ。
もう相当年配で学校の先生をしておられる。今日やはり教養も身に着けておられる方なんです。ね。私はそれを思うのです。その例えば先生の言われる通りにしたら、こういうおかげを受けたという事よりもですね、初めて聞いたその教えが生きておった訳なんです。相手の心に生きて通うた訳なのです。はあ私の長年の人生観というものがですね、もう本当に変えられるほどしのものであった。
何十年間という間、いわばもう自分達の様な不幸なものはないと、それを家のせいにしておる事もあった。かというて、今度はその家を兄弟から売れと言う事、そしてその財産を分けようという風に言われると、また嫌と言った様なものでも、とにかく絡んだものが、様々にあってね、所がその心が何て言うんでしょうか、是は先生が言われる様に売るとか売らないとかという事は暫く棚にあげておいて、自分の心の助かりという事を求める事が先決だという風に感じられたのではないでしょうか。
私はねとてもお参りさせて頂いたらこういう病気が治ってこういう風に解決したと言う、おかげを頂いたらですね人に伝えると言う事はいいけれども、そこで私は思うのです。まずわが身におかげを受けてと言う事は、こんなおかげを頂いて有り難いと、例えば病気が治って有難いと、嬉しいと言う様なものではなくてですね、お道の信心をさせて頂くようになったらこの様に心が楽になったという事。
信心をさせて頂く様になったらこの様に楽になった、しかも楽にならせて頂いたら、あれも整い是も成就していくと言う様に、一つ一つを何時の間にか何とはなしに、おかげの受けていかれるという有り難さ。まあ成程是ならば先ず我が身におかげを受けて、と言う事が言われる筈だと。ね。ただ病気が治りましたとか、それなら医者や病院があるじゃないかと。お金そりゃ一生懸命頑張ったっちゃ金が儲かるじゃないかと。
と言う様にですその、そういう例えば、おかげではなくてね、是だけは買う事も出きらなければですね、求めたからというて、与えられるものじゃない。求めんならば、宗教に求める外にない。心が救われると言う事は。ただ修養話しだけを聞いただけのこって、心の改められるという事はない。よしそれを改まったにしても、けれどもそれにはおかげは伴わないという事。
信心によらせて頂かなければ、おかげを受けて後に人を助けてやれと。そういうおかげ、ですからそういうおかげを頂いて人に伝えてやれれるほどしの、おかげを受けておる人達が実際はお道の信心の中には沢山出来なければならんのだけれども、そう沢山おられないということです。ね。そこで信心も手習いも同じ事。一段一段進んでいくのじゃ。にわかに先生になれぬぞとこういうわけなんです。
ここの一段一段と言うところが大事なんですね。この度のこ本部参拝でおかげを受けたことなんですけれども、ご承知のように少年少女会が沢山少年少女の大会に参加しました。こっからもあの様に本当にあの何ていうですかね、やっぱりあの服だけは合楽の服はとてもしようしゃで、愛らしく可愛らしかった。まあ欲目だからかもしれんけれども、皆30何名揃うて行進しておるなんかもう本当に胸が熱くなる様に私は感じた。
けれどもここに一つ、勿論是は全国の中にも大きな指折り数えると言った様な大きな教会でありまた、数、粒数も、まあ指で数える位しかありませんけれども、あの金光の町を行進しておるブラスバンドがついてます。いわゆる楽隊なんです。それを先頭に実にその、見事な行進を皆やっているんですが、その見せて頂いてからこれは合楽も一つおかげ頂かにゃいけんなと私はそういうものを心に感じさせて頂きながらお広前に参拝させてもらい奥城で御祈念をさせて頂いた。
もういつもの事ながらおかげを頂いておりますが、奥城でも沢山の参拝者がありましたけれども、あそこへちょうど私が座らせて頂く、ちょうど教祖様の奥城の真正面の一番前に席を頂きましてね、そして御祈念をさせて頂きました。その事を祈った訳じゃないけれども、その今見て来たばっかり、聴いて来たばかりの少年少女会の事が、胸に御座いますもんですから。その事を思うておりましたら、少年少女の事についての、いろいろとお知らせを頂くわけです。
それから御祈念を終わらせて頂きまして、はあやっぱりこの神様も私が思うて居った様に少年少女会のもう、その合楽のいろんなその、いわゆるその楽隊をですね、作ってやりたいと言った様な願いが、神様のお心にもやっぱりあるのだなあと、言った様なものを感じたのです。それから御祈念を終わらせて頂きまして、横を見ましたら、今度は何時も四神金光様の奥城の前で御祈念を致しますね、ご挨拶をいたします。ところがそこの前がもう一杯なんですよ。行けないんです。
それで私は丁度その日は扉が開いて御座いましたから、丁度私が座っておる所から、斜めに四神様の奥城がはっきり見えるんです。それで私は皆さんにこっから見えるから、こっから拝めるからこっから拝もうやというてその、お礼をさせて頂いた。そしたらですね、先程私の心の中にあった少年少女会の、その事がまた浮かんで来たかと思うたら、少年少女会の記章ですよね、八つ波の中に○少の少が入っておる。その記章がフッとこうさかさま下を向いておるところを頂くんです。
あらどういう事だろうかと私は思うたそしたらですねここから見えるから、ここから見えるからここから拝もうというのがいけんのだとね。例え人が多かっても押しのけて行く事はいらんから、矢張り四神様の奥城の正面まで行ってからお礼をさせて頂くのが本当だと。もうそれこそ○少の少じゃないけれども、ほんの少しばかりの事なんです。その少しばかりの事をですね、本当の事の上に現して行くと言う事が信心なんですよ。
というてなら皆さんにですよ、信心のもっともっと進んでおられる方の真似をせろと、一遍に出来るもんじゃありゃしません。私共でもそうです。私共には三代金光様という大変なもう言葉で言い様が無い程の良いお手本があったし、それを私共は間の当りに見たり拝んだりして来ているんです。金光様を取り次ぎ者の手本と言った様なものを。けれども、一遍になら金光様の様にはなれないけれどもです。
もう金光様のあられかたとか、なされ方という事にです、ほんの少しでも是が本当でこれなら自分にもでも出来ることをです、行の上に現していく事が信心だと言う事。してみると信心は難しい事ではない。とても先生の真似は出来んと言う事はいらん。その是なら出来ると言う事を行の上に現していく事が信心なんだ。ほんの少しそこん所をです、今日はここに信心も手習いも同じ事、一段一段というておられます。ね。
初めから草書とか行書とかといったって難しいけれどもまず、ね、片仮名とか平仮名とかそれも楷書で、そして行書で、そして草書でと言った様に初めから、草書を書き習えなんて言う様な事はあろう筈がない。ね。そんならそういう姿勢にこちらがならなければいけない。こうする事が本当だ、けれどもこっから分かりよるけんで、こっから拝まれるけんでということ。ね。しようと思えば出来ることをやらない。
それも自分にも出来る事を。ね。教祖様のまだお若い頃にお四国参りをなさった時にね、前の人達は同行の方達はもうどこどこの谷の所にお祀りしてあるのは、どこどこの何番の何々のお大師様ならお大師様というて拝んでいかれる。どこどこの山の上に奉ってあればもうここから拝んどこというて拝んで行かれたけれども教祖の神様だけはね、実意を貫いて谷の底におり山の上に登って、折角お四国参りをさせて頂いたのであるから、お参りをさせて頂こうというて結局とうとう連れから外れて一人になられた。
それでも一番最後に乗り込もうと言う時になったら、皆さんと一緒になられた。皆さんは何やらかにやらでその、時間をとったけれども教祖様は、ね、ここから拝んでおけばよかといった事をなさらなかった。折角お四国参りをしておってから、そんな事ではお四国参りの値打ちがないと教祖様は思われたのでしょう。そういういわばそのあられ方というものに、私共もですそれを神ならわせて頂かなければいけない。
そこでです私は人よりも吾はなおよけれ、我よりと言うておるが、神信心をしてわが身の上におかげを受けてという事は、ただ特別な不思議なおかげを受けたと言う事だけではね、一つも人に伝える事も出来ん、いや伝えても伝わっていないという事の事実を一つ思うて見なければいけませんね。それはここでも大変なもう本当にそういう事があるじゃろうか、と言う様な不思議と思われ、奇跡と思われるようなおかげを受けた人達がありますけれども、その人の家庭に家庭中に信心が広まったであろうか。
夫婦の同じ様な事で難儀をしておる人達に話しが出来て、お導きが出来たであろうか。ね。だからそういうおかげでは、実に人にお導きをすると言った様な事すらも、お話もする事も出来ない。人を助けてやれと仰ると、助けてやる事も出来ない。そこで神信心をしても、わが身の上におかげを受けてという事は始めに申しました様に私の心がこの様に楽になりましたという事です。
信心は勿論内容としてはありがたい勿体無いというのがあります。ね。物の見方考え方が本当な事が本当な事として、見える様になり、聞こえて来る様になるからなんです。今度御本部参拝をさせて頂いて、それから府中という日本一の家具が出来ます所へ、案内して頂きまして(?)ほうの道具をあちらで買わせて頂きました。大変おかげを頂きまして、それから企画の方達が八人でしたか、そうですね八人でしたでしょう。
一緒についてきておりましたが、色々企画がされておった。それはまあ豊美と家内を中心にして、まあいわば縁につかれる前にお別れ旅行と言った様な名目で、というてその色々企画し、また色々練っておって下さった事が、実行されて京都まで今度は参りました。それから京都から、昨日の朝別府につきました。神戸から船で帰って参りました。もうあちらから帰ってくる汽車がないです。
もう夏休みでですね、上からやってくるのにもう、もちろんまあおっせかっせ、三等車に乗ってくればよかったでしょうけれども、グリーン車というですかもとの一等車。あれでおかげを頂きましたから席がないと。それでまあコースを変えましてから、京都から船で帰ったわけです。この度私あの参りましてから色々教えられる事、色々感じさせて頂くことが色々御座いましたが中でも、一日比叡山に登らせて頂きました。当時の仏教のメッカと言われたいわば、霊場なんですね霊山なんです。
その比叡の山に丁度、文男さんのお得意さん、京都ですから、卸先の方が聞かれてからあの大きなあの、大型の外車の様な大きな車がありましょ、あの車をわざわざきれいに修繕して下さって、手入れをして下さってそれをわざわざ旅館まで持って来て下さいました。それで、高橋さんの運転で六人ですから、あと六人で京都の町を見物させて頂いた、見物というても今申しますように、(?)がすぐ宿の側でしたから、朝あの(?)を拝観させて貰い、それからすぐに比叡山に登らせてもらった。
もう比叡山は一日二日掛っても、回れるところじゃない。回るだけなのだけれども、私共の様にその、信心でそれを拝むという様なのは出来ません。もう二箇所くらいでした。根本なんとか本堂という、そこんところを拝ませて頂いて参りましたら、もう朝から観光客がいっぱい詰め掛けておりましてね、ちょうどお寺のお坊さんのお説教が始まっておるところで御座いました。
そのお説教を私拝聴させて頂いたのですがね、本当にあの私は私のいわば生き方というか、私のモットーというか、そのそれがね、裏付けをして頂いたような気がいたしましたんです。当時の名僧治績と言われる方達が殆どこの山へ登っていわゆる信心共励をやったんですね。もう日蓮宗もありゃ真宗もあれば浄土宗もあると言った様な様々ないわゆる親鸞が登り法然も行き、又は日蓮もあの山で修行致しております。
いわゆるその本当の宗教者の道場のような役目を果した様なところですね。そこのお話です。千二百年になる。そこの山が開かれて。その千二百年の間ですね、法灯ですね、いわゆるお灯りが絶えたことがない、ずうと消えずにいわゆる消えずの灯火というのが三つ並んでおります。奥のほうへ薄暗い中にですね、もう本当にそれだけでも頭が下がるような思いがいたします。
ようも千二百年の間、しかもあの織田信長に焼き討ちをされましてね、そして、もう、ほとんど廃墟に帰したんです。ね。その時分のいわゆる美術品といったようなものがあの全山に集まっておったといわれるほどしに素晴らしかったらしいですね。それがもう全部灰に帰してしまった。それを徳川時代、三代将軍家光公が建立されたというのが現在の比叡山のお寺なんです。
そういう例えば由緒のありますお寺でございますけれども、そのお話をされるどの宗祖も教祖もですね、いわゆる教祖的な偉いお坊さん達がね結局帰する所どういうておられるかというと、この三つのことを言うておられますというて、色々とあらゆる角度からお説教なさいましてから、結局この事を分かる為にこの説教があったんだ。この事を自分のものにする為にそれこそ血のにじむような修行もなさったんだというその、三つの事をあげてお話になられましたがです、それがどういう事かというとですね。
第一に腹を立てないという事ね。第一に腹を立てないという事。第二に不足を言わないという事ね。第三にはね所謂我欲ですね、欲をむさぼらないという事。貪欲にならないという事。この三つに焦点が置かれた。そしてここん所が解ればです人間は皆仏になれるといった。ですからですね驚きます事はこちらから拝ませて頂く、そこに説明がありましたがもう普通どこで、大きな伽藍堂の中に如来様がこうお祭りしてあるですね。
その如来様がですね、如来様というですかね、何様というですか、その私共が立って礼拝すると同じ高さなんです。御簾が低く、御簾がこの低く下がっておる。そこに丁度立ちますと、向こうの仏様もちょうど、私共こうやって拝んでおられる様な格好に安置してございます。その前にいわゆる消えずの灯火というのが、こうあるわけなんですね。そしてその下を見ると、今度は人間が二人立たなければならないほどしの、低いこの地面になっておる。そこが全部石畳。
その石畳そこでもうあらゆる修行をされ、あらゆるそれこそ念仏三昧をまあ、偉いお坊さん達がなさった所で今でもやっぱりそれがなされております。教祖の神様とやっぱし同じ事でね、仏も人間も同じだ同一だと同じ物を持っておるのだと。いう所から同じ高さなのです。という所でそういう風にお祭りされたという事で御座います。けれども私共にはです、( ? )腹を立てたり、不足を言うたり貪欲になったりするから。
私共が人間凡人という事になるのであって、そこでですそう言う様な事がです、私共仏と同格であるという所まで進んでここに人間の本当の幸せはいわゆるこの世で極楽という事を言うておられますね。この世に弥陀の浄土というものをです、この、現世に現そうと言うておられるのですね。やはり。弥陀の浄土というのは三万億土の向こうの事ではなくてからこの人間の世界にそれを現すという事が、宗教の根本的なもの。
その願いだということを言っておるわけです。そこでそのお説教の坊さんが長々とお説教をなさったあとにです、言われる事がね、ですけれども、私共はなかなか言葉にいうのは易くて実際に行うことは難しいことだ、一切が私共でもそれはもうできないのだとこういわれておる。せっかくお話をなさってからですよ、これは、言うことは見やすいけれども、行うことは難しい。
もう聞きよるほうが、ははぁあれは難しいちゃけん、行わんでよかばいなと言う様な感じなんです。私それを聞かせて頂いてから私はおかげを受けておるなあと思うたです。成程私も完璧にその腹を立てんとか、不足を言わんとか貪欲をしないとかと言った事がないじゃないけれどもです、段々おかげを頂いてそれが出来ていきよる。しかもそれがそれに取り組む事がこの様にも楽しい事だと言う事です。
合楽の信心はね。言葉には易いけれども行うには難しいと。だから実際は出来ないのだという風にではなくてです、合楽の場合はねそれに取り組ませて頂くという事が楽しいのだと、私いつも言っておるでしょうが。信心とはこの様にも楽しいものだと。何故ってそういう姿勢になり、出来なくても例えば腹を立てんぞとか、不足を言わんぞと、言わんですむ私にならせて下さい、腹を立てんですむ私にならせて下さい。
おかげのあるもなきも和賀心という生き方で、信心を進めていければもうそこに、体験が生まれるという事なんです。ですから信心、やはりそういう大変な事であろうけどもそれに取り組むと言う事は、実にある意味では厳しい様であるけれども、実は楽しい事なんだと合楽の信奉者の全部の方がそういう風に頂かなければいけんのじゃないかとこう、頂かなければいけんです。
ただおかげを受けるためにで参っておるのではなくて、そのおかげでも自分の心がこの様にも腹を立てんで済む様になった。この様にも不足を言わんで済む様になったと私は言う所にですね、お互いの焦点が置かれなければならないと。ね。ですから是をもちっと現金主義に申しますとですね、もう腹を立てたら馬鹿らしかという事なんです。ね。不足どん言うとったっちゃもうほんなこて勿体なかて。
というまあ、ね、算盤を持つようですけれども、いっぺん腹立てりゃ千円損するちいうごたる風な気持ちでです、その時取り組む事によって私共はその至難と言われるそういう、三つのいわゆる信心とは、和賀心が神に向かうのを信心というのだと仰る、教祖の言われ方と教えておられる事とです、ね、あらゆる偉いお坊様達が悟りを開かれて、仰っておられておるという事がです、ね、人間も仏も同格だと、ね。
けれども、人間にはこげん三つのいわば、至難なものがある為にです、仏になれんで、あえいでいるんだ苦しんでおるんだとだから、成り切ってしまわなければ助からない、というのではなくて、金光大神のお取次の働きというのは是から始まる。金光大神はそこんところを、立派におかげを頂いてござるのですから、この金光大神が保証人になって下さって、私共におかげを貸し付けて下さるようなものです。
そこに私は生きた宗教だということがですね、金光大神の金光教の信心は素晴らしいことだということを思います。ね。そういう難しいことでもお取次を頂いてです、金光大神のお徳にお縋りをして、腹を立てんぞ不足を言わんぞ、ね、貪欲におちてはならんぞと言う姿勢をそちらの方に向けてです、言うちゃ損する馬鹿らしかと言うぐらいな気持ちになって、それを本気で取組むという事がです、もうその姿勢にそちらのほうに向けばもうおかげが現れておるという事。
しかもこの様に腹を立てんで段々済む様になった、この様に私はこの問題、昨日みえたその方もそうなんです。ね。学校の先生でもなさるくらいですから、子供さん達も大学を出ておられるというのですから、もう年配も相当でしょう。人生のあらゆる様々な所を通って来て、ね、学問の上ではそういう程度の本くらいは読んでおられる。自分でもそれを言うておられました。分かっております。けれども生に直にです、そういうもんだという事を聴かせて頂いたのが今日が初めて。
そして私共でもそれに取組んでいけばできるんだと、そこにはもう人間関係が解決する。私がよく話しすればそれは問題はない。そう言われるんです。ですからまぁあんまりはやまりなさいますなと。あんたが、( ? )まあ時期を待ちなさい、そして誰もが喜べれるタイミングの良いおくり合せを頂いてから、売るなら、売る、建てるなら建てると言う事をなさればいいのでしょうというたのですけれども、ね。
そういう助かりそういうおかげを私共がまず、頂かなければいけん。為には取組まなければいかんのです。私は金光様のご信心の助かりという事はそれだけじゃない。それはまああらゆる角度から色々御理解を頂いておりますとです、けれども煎じ詰めますとあらゆる、御理解もこの三つを完璧なものにする為のものである。どうでしょうね腹が立たん様になり、ね、不足を言わん様になったり。
それも始めの間は算盤を持つ。腹を立てれば損するから、ここだけは一つ思い込まなければいかんです。皆さんが。ね。腹を立てたら馬鹿らしかと日に三ベン腹立てると、三千円損すると思いなさいいうならば。ね。本当いうたら千円二千円じゃなかとよその損は。神様が下さろうとしておるおかげを本当に頂くという事になればです、そん位な事じゃないです。だからそこん所の思い込みを。愈々作っていかなければならん。
同時にまあ比叡山のそのお寺のお坊さんのお話を頂いてですたい、ね、いわば日蓮も親鸞もいうならば法然も、ね、現代の私の信心の裏付けをして下さった方達だと私は思うのです。本当だという事。私が言うておるのが嘘じゃないんだと。けれどもそういう素晴らしい教えでもです、もう枯れ果てた人がといたって、もう始まらないと。それを枯れた心で自分が修養と思うてぐらいな事で行じた位の事ではだめだと。
生きたお取り次ぎの働きによってです、生きた心を持ってそれに取り組む所にです、私は真実人間の幸せに一歩一歩近付いていく。そういう意味合いにおいて神信心も手習いも同じ事、一段一段進んでいくのじゃ、にわかに先生にはならんのぞと仰っておられる。ね。だから、一遍でそこをまねするわけじゃないけれども、始めはいうなら欲でもいいです。腹立てれば損するけんでくらいな事でもいいけれども。
腹を立てては勿体無い。馬鹿らしい。いやもう腹の立つという事を全然知らなくなったという程しに有難くなり、しかもそのありがたいという心でです、相手にも送ってやれれるというような、ところから私は人には、話しを伝えていくと言った様なね、自分がまずそういう意味合いにおいて自分がまず助かってその後に人を助けてやれということが、何か今日の御理解を頂いてはっきり分かったような気が致しますですね。
どうぞ。